量子コンピューティング

近い将来のユースケースを開拓する量子ワーキング・グループ

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量子ユーティリティーから量子優位性へとステージを進めるために必要なのはアルゴリズムの発見です。ユースケースに詳しい分野専門家(SME)と量子研究者の双方を含むコミュニティーで、量子技術がメリットを生み出す領域の発見にとりかかりましょう。

IBMはパートナーと共に過去2年間で、量子のメリットに有望な5つの分野で量子アルゴリズム開発の促進を行うワーキング・グループを立ち上げました。それらの分野とはヘルスケア&ライフサイエンス、材料科学、高エネルギー物理学、最適化、サステナビリティーです。これらのグループは、定期的に会合を開き、関心のある問題を特定し、それらが困難な理由を探り、最新の技術を把握し、初期のユースケースを探り、短期的あるいは将来的に量子がメリットをもたらす領域を探ります。

今月にサステナビリティー量子ワーキング・グループがキックオフを行ったことで、すべてのグループがそれぞれの分野で量子優位性を目指し稼働し始めたことになりました。グループは今まさに、ホワイトペーパーを公開して、量子加速の可能性を持つ未解決の問題も含めて、量子がそれぞれに何をもたらすかに関して活発な研究協力体制を形成していくところです。

なぜこれらのワーキング・グループは必要なのでしょうか? 私たちは量子優位性には2つの要件があると常に述べてきました。第一に、古典コンピューターでは正確にシミュレーションすることができない量子回路を量子ハードウェアが実行できることを示すことです。私たちはこれを量子ユーティリティーと呼び、昨年Nature誌の表紙に掲載された論文(有用な量子コンピューティングに向けた道筋を示したIBMとカリフォルニア大学バークレー校の論文はこちら)で初めてその証拠を示しました。 第二に、それらの量子回路が、他の最先端の方法と比べても、実際に問題を解くために優れた最良の方法であることを示すことです。

量子優位性を実現し利用可能にするためには、広範囲の量子コミュニティーの協力が必要です。各分野の専門家は、未解決で重要な問題を自分の分野に見つけ、その中で既存の古典的方法では解決できない問題を特定する必要があります。量子専門家との協力により、彼らはその問題のうちのどれが量子を使った解決を試みるに適しているかを判断することができます。最後に、彼らは問題を量子コンピューターで実行するプログラムにおとしこみ、発展を続ける量子ハードウェア上で実行し、その結果を既存の古典的方法と比較する必要があります。私たちは、この探索が近い将来に量子優位性を実現する上で不可欠であると信じています。

各グループが稼働し始めたので、これらのワーキング・グループがどんな集団であり、どのようにそれぞれの領域で量子優位性を実現する活動を行なっているかについてご説明する準備ができました。

 

高エネルギー物理学

世界中の研究所では、物質を根本的なレベルで研究しています。粒子のビームを衝突させることで高エネルギー実験を実施して、新しい粒子を発見し、物理学の未知の領域を開拓することを目指しています。しかし、これらの実験は膨大なデータを生成し、そのデータを処理するためには指数関数的に増加する計算力が必要です。世界中で協力しながらこのデータを処理・分析する、数十年間にわたるひたすらな努力が、インターネットの今日の使い方に影響を与える主要な計算技術のブレークスルーにつながりました。たとえばCERNは今日までのワールド・ワイド・ウェブ(www)とグリッド・コンピューティングの発展に不可欠な貢献をしました。

これらの実験の出力結果を理解するという課題は、新しくてさらにパワフルな実験が使用されるようになるにつれて、ますます困難になってきています。量子コンピューティングは、特にこれらの実験が本質的に量子的な情報を扱うため、この分野に価値を提供する可能性があります。2022年11月、ジュネーブにあるCERNで、Quantum Computing for High-Energy Physics(QC4HEP:高エネルギー物理のための量子コンピューティング)ワーキング・グループの会合が初めて行われました。このワーキング・グループには、CERN、DESY、オークリッジ国立研究所、東京大学など、量子コンピューティングがどのように分野を革新するかに興味を持つ世界中の研究機関の専門家たちが参加していました。

2023年のホワイトペーパー1でQC4HEPグループは、最終的にはユーティリティー・スケールの量子プロセッサーで実行することを目指して、HEPに関連するユースケースをリストアップしました。彼らは、量子はHEPに2つの重要領域で影響を与える可能性があると結論づけました。すなわち、高エネルギー物理学の問題をモデル化するためのアルゴリズムや方法、そして、実験結果の分析、実験で使われる検出器のシミュレーション、衝突粒子によって生じる事象のシミュレーションにおける数値的方法です。

しかし、HEPは別の理由でもユニークな位置づけにあります。すなわち、対象の系も量子力学の法則に従うということです。そのため、特に研究対象である系のダイナミクスをシミュレートする場合など、HEPでは比較的短期に量子コンピューティングから恩恵を受ける可能性があります。これらは量子的である性質を強く持つ系であるので、量子コンピューターを使用してこれらの種類の問題を解くことは、直観的にも意味があることです。

さらに、物理学者たちは、実験での量子センシングの情報を組み合わせて量子コンピューターで分析すること、すなわち量子リソースを使用して量子データを分析することも可能になるかもしれません。

高エネルギー物理学は量子コンピューティングと同じスケールで同じ基本的な法則に従うため、緊密な関係を持っているのです。このため私たちは量子がHEPの分野を加速する大きな可能性を確信しています。

 

材料科学

多くの材料科学の問題は本質的に量子的であるので、材料科学分野での量子加速は、物質の基礎的な理解から、エネルギー貯蔵や太陽光発電など産業的な問題まで、さまざまな分野で恩恵をもたらす可能性があります。

今日、材料科学は、すでにハイ・パフォーマンス・コンピューティング(HPC)のリソースを多く取り入れており、材料のモデルを動かすために使用しています。ただし、正確なシミュレーションは、シミュレートしようとしている系のサイズによって指数関数的に増加します。材料科学者たちは、この問題を克服するために近似を使っていますが、そのような近似は、材料の複雑さによって破綻してしまうか、シミュレーションに必要なリソースが莫大になってしまうことがあります。

ここで量子コンピューティングが登場します。いくつかの量子アルゴリズムには指数関数的な高速化やメモリー使用量の削減が約束されています。そして、私たちは既に、より広いビジョンである量子中心のスーパーコンピューティング(QCSC)の一部として、量子コンピューティングが古典的なスーパーコンピューティング・ワークフローに組み込まれることを予期しています。したがって、材料科学では既存のワークフローに大きな変更を加えることなく、量子リソースを取り入れる準備が整っています。

材料科学ワーキング・グループは、2023年3月、シカゴ大学で立ち上げられました。このグループには、オークリッジ国立研究所、理研、シカゴ大学、ボーイング、ボッシュ、エクソンモービルなどのメンバーが含まれています。関係する話題に関するプレゼンテーション、ブレークアウト・セッション、研究の開始に向けたフォローアップを行った後、2023年12月にホワイトペーパー2を公表しました。

それらのアルゴリズムは、幾つかの関連するユースケースに適しています。恐らく最も人気があるのは、系の基底状態のシミュレーションで、これは化学反応中の物質の挙動を理解するための鍵です。さらにこのホワイトペーパーは、シミュレーション、励起状態の計算、振動構造計算など多くのさらなるユースケースを列挙しています。

 

ヘルスケアとライフサイエンス

量子が化学レベルでインパクトを持つ可能性があるなら、一段階高い、生物学レベルでもインパクトがあるかもしれません。細胞やタンパク質といった複雑な系でメリットが得られるのは比較的に遠い将来になるかもしれませんが、人類全体に対して恩恵を与える可能性は非常に大きいです。これがヘルスケア&ライフサイエンス(HCLS)ワーキング・グループの理念の背後にあります。

実際のところ、画期的な技術的発展はすでにHCLSを変革しています。新しい顕微鏡技術がこれまで以上に詳細な人間の身体内部を捉えることを可能にし、新しい方法が生物学者に細胞レベルの組織の3Dマップを作成することを可能にしています。これにより、細胞アトラスの作成から、生命を救うワクチンの開発、ヒトゲノムのマッピングなどにわたるまで、国際的な大きな取り組みが生み出され、病気の治療方法さえも変化しています。たとえば侵襲性の強いがんのような、これまで治療不能の疾患に対しても、将来、技術の進歩が解決策を提供できるかもしれません。

HCLSワーキング・グループは2023年4月に、非営利の学術医療センターであるクリーブランド・クリニックで立ち上げられ、加えてシカゴ大学、モデルナ、ハーバード大学などからのメンバーが参加しました。そのホワイトペーパー3でワーキング・グループのメンバーは、「Quantum Enabled Cell-Centric Therapeutics(量子が可能にする細胞中心の治療法)」と呼ばれるヘルスケアと薬剤発見を再構築するビジョンを提示しました。HPCと量子アルゴリズムを組み合わせることで、彼らは個人レベルで疾患組織内の細胞の挙動を理解し、最終的により良い治療法を創造することを目指しています。

Quantum Enabled Cell-Centric Therapeuticsは、4つの主要な領域をカバーしています。

  • 第一に量子ニューラル・ネットワーク(QNNs)を使用して、免疫細胞がシグナルを送受信する方法を、限られたデータから学習します。
  • 第二にハイブリッド古典・量子生成ニューラル・ネットワークを使用して、腫瘍周囲の環境をモデル化します。
  • 第三に新しいハイブリッド量子最適化アルゴリズムを使用して、治療介入に対する個々の細胞の反応をモデル化します。
  • そして第四に、量子を使用してトポロジカル・データ分析を行い、細胞間の相互作用をより良く把握します。

私たちは、量子がHCLSをすぐに変革できるとは予期していませんが、この仕事は、HCLS研究に量子アルゴリズムを組み込む潜在的な可能性に、広いコミュニティーを巻き込む呼びかけとしての役割を果たします。量子は、古典的方法と匹敵したりさらには優位性に可能性のある特定の分野で既に問題を解決し始めています。HCLSでは今こそ、ポジティブな影響を早期にもたらすためにユーティリティーを実現することを考える時です。

 

最適化

順番は後になりましたが重要性は決して他に劣らないワーキング・グループは、複数の領域に横断するステークホルダーの興味を集めている問題である最適化です。もし最適化問題に対して量子優位性を見つけることができれば、ビジネス価値が大幅に向上する可能性があるため、この分野は非常に高い関心を集めています。また、将来的には量子コンピューティングが高速化、コスト削減、品質向上、異なる種類のソリューションなどを提供する可能性があるという希望もあります。

最適化ワーキング・グループは、エネルギー企業のE.ONや金融サービス企業のウェルズ・ファーゴなどのパートナーを擁し、2023年12月にはホワイトペーパー4を発表しました。このホワイトペーパーは最初に、量子が最適化にどのように貢献するかをまだ探り続けている段階であるという期待値の設定から始めています。たとえば、有名なグローバーの検索アルゴリズムは、古典的方法に対して二次的な高速化しか提供せず、最近の研究ではエラー緩和を行うオーバーヘッドが、その潜在的な利点をすべて打ち消してしまう可能性があると発見しています。

しかし、量子加速の数学的証明があるアルゴリズムだけが探求すべき方向性ではありません。なぜなら実用的な量子優位性を求める上でそれは必須ではないからです。たとえば、NP-intermediateと呼ばれるクラスの問題があります。これらの問題は、古典コンピューターで効率的に解くことができる(P)のか、あるいは、正しい答えを効率的にチェックできる最も難しい問題(NP完全)と一緒にグループ化されるべきかどうかが明確ではありません。素因数分解はこのクラスに属し、ショアのアルゴリズムは最良の既知の方法に対して指数関数的加速を提供します。さらに、NP完全クラスに属するような問題に対しては、近似解も非常に価値があります。

そうした状況を踏まえると、価値を提供する潜在力を持った量子最適化アルゴリズムは多数存在します。量子近似最適化アルゴリズム(QAOA)断熱量子計算(QAA)ギブス・サンプリングなどです。これらのアルゴリズムの潜在力を理解するためには、困難な問題に対して体系的にベンチマーキングを行い、最新技術と比較する必要があります。そして、ベンチマーク問題は人工的な問題かもしれませんが、実用性はあるが古典コンピューターで扱うのは困難であるという最適化問題を特定する必要もあります。これら両方が、最適化における量子優位性に向けた研究を導くことになります。

今日、ワーキング・グループのメンバーはすでに、金融資産の配分やサステナブルなエネルギーへの移行のようなアプリケーションを、現実世界にインスパイアされたベンチマーク問題を導き出すための応用分野として使用しています。この努力は、最適化のための量子コンピューティングの探索と同時に続けられていきます。

 

次に:サステナビリティー

ちょうど今月(2024年5月)、PINQ²、シャーブルック大学、Hydro-Québec、ルクセンブルク大学、E.ONによってもう一つのグループのキックオフが行われました。このワーキング・グループの目的は、材料とエネルギーの分野におけるサステナビリティーの課題に対処するため、量子コンピューティングとハイブリッドのソリューションを設計するという野心的な目標を持って、量子とサステナビリティーの両方のコミュニティーのトップ科学者を集めることです。独特の形式を持って行われたこのキックオフ・ワークショップは、量子コミュニティーとサステナビリティーの分野専門家との間のギャップを埋める道を開きました。

このグループは、キックオフの後、サステナブルな材料や最適化などのトピックをカバーする5つのフォーカス・エリアを決めました。彼らは、このコラボレーションから生まれる進歩が、エネルギーの貯蔵と配送の効率化、エネルギー・システムの改善、そして気候変動全体への取り組みに役立つことを目指しています。

私たちは、ワーキング・グループから生まれる協業と洞察が、分野横断的に科学的進歩を生み出すことを期待しています。そして、新しい研究と同時に、今日のユーティリティー・スケールを持ったシステムで量子優位性への道筋を示すことを私たちは願っています。

 

 


参考文献

  1. Di Meglio, A., Jansen, K., Tavernelli, I., et al. Quantum Computing for High-Energy Physics: State of the Art and Challenges. Summary of the QC4HEP Working Group. arXiv. https://arxiv.org/abs/2307.03236
  2. Alexeev, Y., Amsler, M., Baity, P., et al. Quantum-centric Supercomputing for Materials Science: A Perspective on Challenges and Future Directions. arXiv. https://arxiv.org/abs/2312.09733
  3. Basu, S., Born, J., Bose, A., et al. Towards quantum-enabled cell-centric therapeutics. arXiv. https://arxiv.org/abs/2307.05734
  4. Abbas, A., Ambainis, A., Augustino, B., et al. Quantum Optimization: Potential, Challenges, and the Path Forward. arXiv. https://arxiv.org/abs/2312.02279

 


この記事は英語版IBM Researchブログ「Quantum working groups push for near-term use cases」(2024年5月22日公開)を翻訳し一部更新したものです。

松尾 惇士
監訳:松尾 惇士
IBM Quantum スタッフ・リサーチ・サイエンティスト
Quantum Engineering and Enablement Team
立花 隆輝
監訳:立花 隆輝
IBM Quantum シニア・テクニカル・スタッフ・メンバー
量子コンピューターの社会実装に携わる。
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